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【連載】藤室長の部屋 2「藤屋段ボールって昔は何屋だったの?(前編)」
【連載】藤室長の部屋 2「藤屋段ボールって昔は何屋だったの?(前編)」
藤屋段ボールの事、段ボールの事、サステナビリティ(持続可能)の事について—
隔週で新米システム担当 大倉が様々な物事について1歩深堀りしていく
ウェブコンテンツ”藤室長の部屋”。
第2回のテーマは「藤屋段ボールって昔は何屋だったの?」です。
大倉 お疲れ様です。
前回は貴重なお話をいただきありがとうございました!もっと会社について詳しく聞いていきたいと思い、今回は藤屋段ボールの歴史についてもう少し深堀りしていきたいのですが、よろしいでしょうか?
藤 はい、問題ないです。会社のことを深く知ることで何か見えるかもしれないから、どんどん聞いてください!
大倉 ありがとうございます。では藤室長、今回もよろしくお願いします!
藤 よろしくお願いします!
【藤屋商店の原点】
藤 ところで大倉さん。藤屋商店が始まったのはいつだか分かる?
大倉 確か、1922年に創業されたのですよね。
藤 合っているけど少し違うんだ。1922年に創業した藤屋商店は『桐材業』を始めた年で、実際はもっと昔から藤屋商店は実在していたんだ。
藤屋段ボールの初代 藤 藤吉(トウキチ)氏の先代が1902年に開業した「藤屋洋品店」が原点だと言われているよ。
大倉 そうなのですか?洋品店、今の事業から考えると本当に想像がつかないです。
藤 びっくりするよね。ちなみに当時の藤屋洋品店では、文房具や紙、たばこ、雑貨類などを他の店舗から仕入れて販売していたそうだよ。
藤吉氏もその後、家業を引き継いで、その際に今まで店内に入るときに靴を脱ぐ『座売式』をやめて、靴を履いたままでも店内を見て回れる『開放式』にした。これによって誰でも入りやすい空間が一目置かれて、業績向上も図れた。というわけ。
大倉 現代のスタイルにいち早く着目していたのですね。
藤 ただ、1932年に住居を新築すると共に洋品店は閉店したんだ。と言うのも、このころにはもう桐材を扱う藤屋商店や、他にもたくさんの事業を手掛けていたから、これ以上洋品店を開く必要もないと決定づけたのかもしれないね。
大倉 考え方がシビアですね。…あれ、他にもたくさんって、桐材以外に藤吉氏は他の事業も同時に手掛けていたのですか?
藤 藤屋段ボールの今の事業と直接関わっていない事も色々やっていて、今でいうベンチャーマインドのある方という表現があってると思うよ。
【桐材業の発足】
藤 藤吉氏は洋品店を引き継ぐ前に、桐材関係の修行で大阪に行くことになるんだ。
大倉 新潟ではなく大阪なんですね、ちなみにいつ頃から修行を?
藤 14歳だったかな。進学の道と商売の道という2つの選択肢の中で、大阪にあった「星野周元商店」という桐材関係のお店で丁稚奉公(※1)として働いていたんだ。
当時は技術を学ぶために、高等小学校を卒業してすぐにこの星野周元商店に住み込みで働いていたんだ。そこで桐材についてはもちろん、商売のノウハウも学んだ。
大倉 なるほど。学業で習って学ぶというより、実際に商人について目で体で確かめながら学んでいたのですね。
藤 昔は職人から技術を取得するなら住み込んで働いて覚える時代が主流だったみたい。昔は今みたいに裕福ではなかったからね。
藤 藤吉氏はその後1920年に、一度は洋品店をそのまま継いだんだ(その頃は桐材業をやるにも資金が足りなかった)。さっきも話した通り、店内のスタイルを変化させたことで業績も上がって、2年後の1922年には桐材業の「藤屋商店」を設立できた。
大倉 以前聞いた際には桐下駄や緩衝材を製造していたと話していましたが、初めからその製造を?
藤 いや、最初から桐下駄を作るような機械も技術も不十分だったから、その桐下駄を作るための木取(※2)を市内外から仕入れて、お客様に販売していたみたい。修行中のツテもあったみたいで、基本的には西日本にお客様がいたみたいだよ。
ただ、木取を仕入れて販売するだけでは限界を感じ、自身で機械を購入、小さいけど工場も創設して木取の自社製造を始めた。自社で作ることで需要と供給のバランスもだんだん上がっていき、取引先は全国に広まった。
大倉 木取の販売だけでもここまでの業績があったのですね、素晴らしいです。
藤 桐下駄の製造販売を始めたのはさらに先の1940年、当時知名度もあったことから桐下駄の売上もよく、主力商品となった。ただ、第二次世界大戦も終戦し、しばらく経つと日本人の履物に変化があらわれた。
大倉 革靴などの外国で生まれた履物が主流になってきたということでしょうか。
藤 そうだね、今まで上流階級の人たちが嗜んでいたスタイルが一般市民にも浸透してきて、桐下駄の需要が下がってしまったんだ。
今後を見据えて桐下駄の生産を終了したのが1953年。事業を撤退する際は在庫のやり場にも苦慮したみたい。
大倉 昔ながらの文化が他の文化にのまれてしまうのは少し悲しいですね。
藤 桐下駄の他に作っていたのが、前に話していた緩衝材となる、木製を糸状に削った「木毛」と、「アバ」だね。
大倉 アバ。どういう漢字を書くのですか?
藤 浮くに子どもの子で「浮子」。網端とも書くよ。浮子は漁で使われている浮きと言えばなんとなく想像がつくかな。
大倉 あの網についている丸いものですか?あれも桐材で作って販売していたということですか?
藤 そう、あのころは外貨稼ぎの一手として魚の缶詰の需要が高く、漁業で浮子の需要が高まっていた。藤吉氏は桐材業の経験もあり浮きを作る技術もあった、さらに漁業関係者ともつながりがあって、1924年ころから浮子のの生産に着手し始めた。
大倉 桐下駄よりも早く始めていたのですね。
藤 浮きは木取の製造時に出た細木や廃材から作る事が出来たからね。資材もリサイクルできて、需要もある。売上もどんどん伸びていったんだ。その時はまだ手作りで規格もバラバラだったけど、1946年には規格を統一して機械化。コストカットと作りだめで効率性を上げることもできた。
大倉 とてもうまい方向に進んでいますが、最終的にはやめてしまうのですよね?
藤 そうなんだ。プラスチック製の浮子が出てきた途端に瞬く間にその材質の浮子が主流となって、桐の浮きの需要が激変。藤吉氏もプラスティック製の浮子を開発していたようだけど、その過程で色々ありまして…。1954年には浮子事業も撤廃、在庫も大量に残って損害はかなりのものだったみたい。
大倉 なるほど。浮子も下駄と少し似たような形で撤退する事になったのですね。
【レストランの開業】
藤 ここからは藤屋段ボールの歴史の中でも少し毛色の違った商売の話になるんだけど、さっき話していた他の事業って、どんなものを思い浮かぶ?
大倉 うーん、やはり製造業でしょうか。どんなものというと、パッとは出てきませんが。
藤 本当に桐材や段ボールからは想像つかないと思う。まずは、レストランを開業していた話にしようか。
大倉 レストラン。飲食店も営んでいたのですか?また真逆の方向から来ましたね。
藤 新潟市内の下町方面にあった料亭が経営不振で建物が売られてたそうで、その物件を買って改築して、1928年に「昭楽軒」という洋食屋を開業したそうなんだ。
今でいうファミリーレストランみたいな感じで、大衆をターゲットとした洋食屋だったみたい。原料の仕入れを工夫して原価は下げて売価を他のレストランより安くする事で競争力を高めたそう。シェフも東京の洋食屋さんから呼んだそうで、味にも定評があったみたいだよ。
大倉 今までの商売のノウハウがしっかりしていますね、もしこのまま昭楽軒が残っていたら、藤屋段ボールも飲食店があったかもしれないということになるのでしょうか。
藤 どうだろうね、それはそれで面白そうだけど。もう一回やってみようか。笑
ただ、第二次世界大戦の影響もあって、全国でレストランが閉鎖していく流れがあったようで、その中で「昭楽軒」も閉店してしまったそう。1年前から準備して、当時の従業員の方は全員次の仕事が決まっていたそうだよ。
大倉 閉店までの流れについては悲しいですが、閉店までにきっちりケリが付けられている、経営者として素晴らしいですね。
藤 実は、まだまだ藤吉氏が経営してきた事業がたくさんあるんだけど、今回はここまでにしようか。
大倉 まだたくさんあるのですね…、確かにまだ段ボールのだの字も出てませんし。
藤 うん、次回はこの続きで、そのほかの事業と段ボールを始めたいきさつについて話していきたいと思うから、次もよろしくお願いします。
大倉 はい!よろしくお願いします。
本日はありがとうございました!
※1 商店などに丁稚として奉公すること。転じて、年少のうちから下働きとして勤めはじめること。
※2 大形の材木をひいて、建築その他の用材を取ること。用材に適するように材木を切ること。
今回は藤屋段ボールの歴史について少し深掘りしていきました。
次回の更新では「藤屋段ボールって昔は何屋だったの?(後半)」として、藤室長にさらに深堀していきたいと思います!