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【連載】藤室長の部屋 3「藤屋段ボールって昔は何屋だったの?(後編)」
【連載】藤室長の部屋 3「藤屋段ボールって昔は何屋だったの?(後編)」
藤屋段ボールの事、段ボールの事、サステナビリティ(持続可能)の事について—
隔週で新米システム担当 大倉が様々な物事について1歩深堀りしていく
ウェブコンテンツ”藤室長の部屋”。
第3回のテーマは「藤屋段ボールって昔は何屋だったの?」の後半をお届けします。
大倉 お疲れ様です。10月に入り、暑い日も続きましたが、ここ数日は急に寒くなりましたね。
藤 そうだね、でもやっと秋の季節らしくなってきた気がして、私はいいと思うな。
大倉 なるほど、四季を感じると考えればいいものですね。
前回からかなり空いてしまいましたが、前回掘り下げた藤屋段ボールの歴史について、もう少し詳しく聞かせていただいてもよろしいでしょうか?
藤 もちろん、前回は洋食屋を開業したところまでだったから、ここから段ボール事業に取り掛かるまで、話をしていこうと思うから、よろしく。
大倉 はい!よろしくおねがいします。
【飲食事業からの更なる展開】
藤 昭楽軒(1928年に創業した洋食店、詳しくは前回の藤室長の部屋にて)で使用していた牛の仕入先である「健康舎」が経営困難になったとの話を聞いて、藤吉氏はその会社を買収する事にしたそう。1931年から会社を引き継いで、牛乳事業に着手し始めたんだ。
大倉 仕入先まで買収するとは、行動力がありますね。
藤 健康舎には普段から生牛を預託していた関係もあったから、良い機会だと思って快く引き受けたみたい。経営困難なこともあって、始めは乳牛が8頭ほどだったよ。その後も順調に生産、販売を繰り返していたみたい。
乳牛事業は牛舎の買収だけではなく、1938年に複数の牛乳事業者を束ねて、「新潟明治牛乳販売株式会社」を設立されたそう。
大倉 経営自体は特に問題なく安泰でしたなら、なぜ他の企業と合わせた新しい企業を作る必要があったのですか。
藤 この頃に牛乳を作る際に必要になる殺菌規則が高温殺菌から低温殺菌に変わってきたことがあってね、そのための設備投資に多額な費用が掛かる事になったんだ。機械の設備投資には多額の資金が必要だったから、各牛乳事業社単独での設備の実装が厳しい状況だったみたい。そんな中で藤吉氏が各牛乳会社に提案したのが、殺菌と販売のみを行う”販売会社”。生産自体は各社で行う事を条件に、健康舎含め9社分の低温殺菌と販売を行う会社を設立したんだ。
このように個々では生産1本に専念できるようになったおかげで、牛の管理と生乳の増産の手回りがよくなり、効率も上がったことで搾乳利益も増えた。販売のほうについても、今までの1/3の人員で行えることから、販売の合理化にも成功した。
大倉 確かに、1つの作業を無くすだけでも他の業務に集中することができますから、そう考えるとこの取り組みも大事ですね。
藤 事業は順調に進んでいったみたいなんだけど、戦争がはじまりその長期化による食糧不足と飼料不足が始まったんだ。飼料が不足すると牛乳の生産が漸減状態に、また1944年には牛乳が配給指定品になり、提供者が病弱者や乳幼児に限られてくるとビジネス的に限界が来てしまい、会社の存続が出来なくなってしまったそうなんだ。ここまでが牛乳事業の話です。
藤 ここから少し別な事業の話だけど、1941年、牛乳事業を展開していく際に、さっきも言った通り戦争の長期化による飼料不足が発生し、入手に苦労した時期もあったそうなんだよね。そんな中で米糠(ぬか)油の工場経営者から企業を譲渡したいという話を聞き、ちょうど使用していた飼料が脱脂糠であったこともあって、経営を引き継ぐ形となったんだ。
大倉 なるほど、タイミングが丁度良かったのですね。
藤 様々な事業のノウハウや繋がりがあってこその縁だよね。今でも大切にしていきたい教訓だと思うよ。
「新潟糠油工業」では糠から採った油は食用として、残った脱脂糠は牛乳業界に配布したところ好評だったそうで、はじめの2年くらいは順調に推移していたそうだよ。ただこれも戦争による影響でガソリン・石炭の燃料不足と、玄米食の宣言による糠の出荷停止もあって、事業から撤退せざるをえなくなったんだ。
大倉 レストラン、牛乳、米糠は全て戦時中に畳まなければいけなくなったと思うと、戦争の重さがよくわかります。
藤 今もコロナでレストランとか飲食店は難しい環境だけど、様々な外部要因で急に困難な状況になる可能性があるというのは、常に心得ていたいよね。
【戦後の藤屋商店】
藤 ここからは戦争も終わったあとの藤屋商店についてだね。1945年の藤屋商店は戦時中に始めていた桐下駄の他に、木毛の販売も始めるようになった。
大倉 あっ、これは分かります。確か今でいう紙パッキンと同じ役割を持っている緩衝材のことですよね。
藤 そうそう、この頃は戦後で日本経済も復興に向けて進んでいた時期だと思うんだけれども、日本として外貨の獲得の一環として梨の輸出を強化していたそう。元々は米の籾殻(もみがら)が梨の木箱の緩衝材として使われていたそうなんだけど、徐々に輸出先が増えてきたところで籾殻が病虫害の原因になるという事で、木毛の需要が高まったんだ。
最初は仕入れた木毛の販売だけに留めていたけど、翌々年には村上の方に工場を建て生産を開始し、製販体制を整えたところ、販売にも軌道がのるようになったそう。梨やりんごなどの果物に関わる事業を始めた事で、農協や出荷組合などともご縁をいただいたんだよね。その繋がりは今も段ボールを通して関係を維持しているよ。
大倉 地道ですがそれが芽を生んだということですね。でも今じゃあまり木毛って聞かなくなりましたよね、確か商品でも取り扱ってないような…。
藤 そうだね、藤屋商店が木毛の生産を縮小しはじめた理由としては、梨の販売先のメインが海外から日本に切り替わった事で木毛の需要が低下した事が大きな要因だね。道路状況など輸送環境が海外と国内では違うから、あえて木毛を入れなくても良くなったと考えているよ。私も木毛を辞めた時期までは詳しくないけれども、言われているのは1964年ごろみたいだね。
大倉 いつのまにかフェードアウトしていた感じですかね、この頃ですと段ボール事業にも手をかけていますし。
では、いよいよ段ボールの話が…
藤 と行きたいところなんだけど、もう少し木材関係は続くよ。
藤 この頃は自然災害による被害というものも大きかった。今みたいに最先端の技術もないし、備えあれば患いなしみたいなことも少なかったのかもしれないね。
1949年にはキティ台風が発生。日本全体で家屋の崩壊や倒木が発生したりして、その中の倒木はどうにも処理できずにいたから数年の間は北海道のほうで放置されていたそうなんだ。台風発生の3年後に、東洋木材企業…今でいうトーモク社 (以下 トーモク) 経由で風倒木を売らないかとの話が出て、藤屋商店で仕入れて他の木材会社を通して販売したんだ。
大倉 トーモクさんとのつながりは半世紀前からあったんですか。こんなにも長くお世話になっているのも素晴らしい縁ですね。
藤 災害による木の需要は高く、1年ですべて売りさばいたらしい。当時の営業の方ががんばったんだね。
1955年に新潟では大規模な火災が発生。新潟大火は古町から信濃川近辺まで全て焼け野原となる大火事だったんだけど。そのあとに東洋木材企業がソ連から松材(ソ連材)を仕入れてきて、それを藤屋商店は同じように販売を始めた。
元々松材がこの頃の日本で需要がとても高かったのと、この大火が発生したことによって、ソ連材は1年もたたずに完売してしまったんだ。本当はまだ木材を仕入れる予定だったんだけど、様々な理由があって木材の仕入販売はここでやめることになったんだ。
大倉 ちなみに様々な理由とは。
藤 うーん、詳細に聞いたわけではないけど、仕入れた木材を乗せた船を同業者から転覆させられたとか・・・(笑) 怖いよね。今じゃ考えられない。
【段ボール事業の開始】
藤 ようやく段ボールの話ができそうだよ。
大倉 おお、ここまでかかると本当に藤吉氏は色んなものに取り組むタフな人だったんだと改めて感じますね。
藤 今は段ボール業に専念しているけど、ここまでやってきたことが積み重なっての今だからね。
藤 この『藤室長の部屋』が始まった最初の回でも話したけど、1956年に木材の仕入のために北海道を訪れていたら、トーモクが段ボール事業を始めていたんだ。この頃のアメリカでは木箱の利用を止め、段ボール箱の使用にシフトしていた時代で、日本にもその波が徐々に来ていたみたい。そんな流れでトーモクと連携する形で、段ボール箱を仕入、販売するようになった。
始めは仕入れていた段ボールも1958年には藤屋商店に製函機を導入。操作できるよう社員をトーモクの小樽工場に派遣し技術を取得、帰ってきてすぐに製造に取り掛かるようになった。今みたいに隣にトーモクがあるわけではなく、トーモク横浜工場からシートを仕入ていたようだよ。
大倉 なるほど、シートは県外から発注していたとなると、今までよりは効率性が高かったとは言えなそうですね。ちなみにこの頃の新潟には段ボールを製造している企業もあったのですか?
藤 あったみたいだよ。でも今みたいに多くの企業があったわけではなく、長岡に2軒しかなかったそうだよ。その事からも本当に段ボールの需要が高まったのは急な出来事だったんだと思うよ。もちろん、新潟では段ボールを作る会社が少なかったから需要は高かったし、高度経済成長期なこともあって段ボール自体もどんどん成長を遂げていった。だから生産が追い付かないこともあって、1963年に沼垂の方に第二工場を新設し、さらなる生産性を上げるようになった。
大倉 昔の段ボールの需要が高かったのは知っていましたが、ここまで大変だったのですね。
そういえば、まだ藤屋商店なんですよね。名前変わったのは確か1968年でしたよね。
藤 そうだね、その年に早川町にあった第一工場と沼垂の第二工場を1つの向上に集約するために豊栄に新たに工場を新設し、これを境に藤屋商店は新たに「藤屋段ボール株式会社」に名前を変更。トーモクとのドッキングもここからだね。
大倉 確か豊栄の工場は今も当時の建屋が…(Googleマップを開く)、新新バイパスの競馬場インターあたりでしたよね。どこですかね?
藤 黒埼方面の出口から見えるはず、あ、ここだね(Googleマップで指して)。よく見ると文字の跡が「藤屋段ボール」に見えてこないかな。
大倉 あ、ほんとですね。教えていただいていたのに気づけませんでした。
藤 ここからまた更なる生産量の拡大に向けて、1989年に東港に工場を建設。それが今の場所になるよ。トーモクも翌年には隣に来たんだ。
段ボールは戦後からここまでの急成長がすごくて、数十年のあいだにここまで拡大するとは当初の藤吉氏も思わなかったんじゃないかな。
大倉 ですね、もう段ボールも始めて60年も経っていると思うと、なかなか感慨深いものです。
大倉 本当にたくさんの事業に取り掛かっていたんですね、今では関係がないものにも、実は縁があったりルーツがあったと思うと、藤吉氏の功績は素晴らしいものだと感じました。
藤 これ今でも全部やっていたらどんな企業になっていたのかなとも考えるけど、今ある段ボール事業もいろいろなものに進化しているし、今は今で段ボールがまだまだ成長できる!ということをもっと伝えていきたいとも思うな。
大倉 はい!私もその熱に負けないよう、更なる成長を見せたいです。
今回は藤屋段ボールの歴史について少し深掘りしていきました。
次回の更新では「段ボールのリサイクルについて」として、藤室長にさらに深堀していきたいと思います!